昨日、約20年ぶりに「ブレードランナー」を見た。(本当は「2001年」を見るべきだったかもしれない。先日、その原作の作家のSFの巨匠の Arthur C. Clarke が亡くなって、僕がSF少年だった10代のころ彼の本が結構好きだったけど、あの「傑作」とちやほやされた映画は実はいつも退屈に思った。それも結局20年も見ていないが。でもブレードランナーの話に戻ろう。)
元々1982年の映画で、出たときはすごく気に入っていた。発表された週に2回も見たほど。しかも、それはビデオがまだあまり普及していなかった時代だったから、映画館での2回だよ!でも昔のSF、つまり「近代の未来」の年の取り方が不思議なものだ。今見ると興奮するよりもおかしくて笑ってしまうところが多かった。「クラッシク」とされているが、見たことがない人は今さら見てもしょうがないんじゃないと思う。また、1982年からは世界もハリウッドもものすごく変わってきたが、それもだいたいあまりいい方向へじゃない。だれのせいか、ハリウッドに関しては昔のスターリン時代のソ連みたいに始終歴史をそのときの都合に合わせて書き直したりすることになった。スターリンの場合は百科事典の永遠の編集のやり直しが有名だ(都合が悪くなった人物が登場する記事が消されたり、昔のグループ写真からもいなくなったりした(Photoshop の前の時代ではすさまじい作業だっただろう))。Photoshop時代のハリウッド(やアメリカの政府)の場合、歴史そのものの都合の悪いところを勝手に書き直したり、リメークしたり、取り直したりする。そしてますますバカになってきた普通の人々の記憶が15分にも及ばなくなったから、とんでもない「書き直し」でも意外と通じてしまう。
そして似たような現象で昔の映画もほうっておいてできないみたい。(それとも、それはただ監督が大人になりきれないからなのかな?)この「ブレードランナー」も沢山のヴァージョンがある:最初の劇場公開版(そもヨーロッパ版とアメリカ版も違うらしいし)、いくつものビデオ版、"director's cut"、ワークプリント、そしてこのあいだ出た、昨日見た"Final cut"。でもだからといって、本当に「最後のヴァージョン」とも限らないし、別によくなったわけでもない。レプリカントの役の Rutger Hauer は今でもすごくかっこいいけど、刑事役のHarrison Ford はまったく迫力がなくなってしまって、ダサいぐらいだ。1982年にはそれなりの迫力があったような気がするけど。
でももっと面白いのは1982年の未来像だ。当時の欧米のなかでは日本のものはものすごくおしゃれだった。しかも未来的、最先端的な種類のおしゃれだった。音楽はYMO、ファッションは三宅一生などなど。(僕が始めて日本に来たのは1983年だが、それももちろん偶然じゃない。)この映画の(より複雑で哲学っぽい)原作の作家の Philip K. Dick も映画の監督の Ridley Scott も、「近未来のアメリカはきっと日本っぽくなる」と思っていたことは間違いない。(残念ながら、その逆になってしまった。アメリカはますますアメリカくさくなって、日本は近未来っぽさを失ってアメリカっぽくなってしまった。僕にいわせると、それは日本だけじゃなくて、全世界にとってももったいないと思うが、そのあたりについて何百ページも書けるから別のときにする。)
監督や映画のデザイナーたちは本当に日本に行ったかどうかはわからない。ハリウッドらしく、行く必要を感じないで、当たり前のように勝手に「ジュペーン」を想像していたかもしれないが、あの空に浮いている大きな広告用の画面は新宿のALTAのスクリーンの影響を受けたとよく言われる。今では町中の大きな交差点に大型スクリーンがごく普通になったが、当時は全世界にあの新宿のスクリーンしかなかったみたい。僕も始めて新宿へ行って実物を見たときはやっぱり「すごい!」と思った。でもほかのところにかんしては、いくらほかの文化に「関心」を持っていても、軽視してしまう、というハリウッドの相変わらずのパターンが目立っている。変な漢字、日本語のつもりの中国語とか。「コルフ月品」とか。まあ、SFだからどうでもいいかもしれないけど。
Sean Young が演じる「恋の対象」のレプリカントも不思議。当時、すごい美人だと思って、ちょっとほれ込んだぐらいだったが、今は声が耳障りだった。趣味が変わるな。美人は美人かもしれないが、あの髪型!あのメーク!!そしてあの横幅の肩パッド!!!は80年代にしかありえなかった。ストーリーの舞台の2019年までに復活するのかな。まさか。彼女がタバコを吸うのもちょっと以外だ。1982年にはタバコの時代の終わりをだれも予測できなかったのか、ということだね。